ですから、ぼくがお葬式をはじめて経験したのは、自分の父親なのでした。まだ五つでしたので、事の事態がよく呑み込めていなかったというのが正直なところです。とくかく、母親と姉がシクシクと泣いているのが印象的でした。
その後、この歳になるまで、お葬式にはもう何回、何十回となく出席し、お葬式にも様々あるものだと感心しております。なかでも、一番、ぼくにとってお葬式らしいと感じたことは、親しい友人たちが執り行うというお葬式でした。
つまり、お寺のご僧侶をよばずに、在家の友人たちだけで執り行うお葬式なのです。仏前にお線香を添えてから手を合わせ、南無妙法蓮華経と三回、唱えて終わりでした。さっぱりとしているのがいいというわけではなく、ぼくとしては、ただ純粋に追悼という精神が大事であろうと思っているのです。
そもそも仏教の教義においては、お葬式なんてなかった筈なのです。現に仏教を開いた大元の教祖である釈迦でさえ、お葬式らしいことはしていないのですから。釈迦が自らの死を前に、弟子たちに言い残した言葉は、“私の死を嘆いてはいけない。それよりも、お前たちは、お前たちの修行を完成させよ”ということでした。
ただ在家の人たちが釈迦の死を悼んで、ガンジスの畔で遺体を焼き、その灰を河に流したとしか伝わっていないのです。ですから、お葬式はこのようにせよという、仏教的な形式などある筈がないのです。
ぼくもこの歳まで、いろいろなお葬式に出席させてもらいました。すっきりとしているという点では、友人葬。その他、ユニークだなと思ったのは、生前に好きだった歌手の音楽葬や、やはり好きだった花を部屋いっぱいにする花葬などでした。でも、それらのお葬式において、これだけは言ってはいけない言葉があります。それは、“面白いね”という一言です。だって、お葬式なのですから。